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RAIN RACEに最も強かった男「雨のナカジマ」、中嶋悟。

FERRARI 643 Photo No.016



中嶋悟(なかじまさとる)



1953年2月23日、愛知県に生まれる。
日本人初のフルタイムF1ドライバーとして有名な中島悟は、34歳にして、1987年開幕線(ブラジルGP)ロータス・ホンダよりデビューした。
結果、1991年に引退するまでの5年間、ホンダと初年度のチームメイトであったセナと共に、バブル期に沸く日本に多大なるF1ブームを巻き起こしたのだった!!



1987年 1984年からホンダエンジンを搭載したF1マシンのテストドライバーをつとめた後に、この年の開幕戦であるブラジルGPにロータス・ホンダよりF1デビューを果たし、7位で完走。マシントラブルに苦しめられながらも4位1回、5位1回、6位2回の合計7ポイントを獲得した。
1988年 初年度と同じロータス・ホンダをドライブすることになる。チームメイトは前年度ワールドチャンピオンのネルソン・ピケに変わる。コースを熟知していた日本GPにおける予選6位など、度々予選トップ10に食い込む活躍を見せるのだった。
1989年 引き続きロータスでドライブすることになるのだが、ホンダからのエンジン供給が止まったために、非力なカスタマー仕様のジャッドエンジンが変わり、ワークスエンジンを持つトップ4チームに比べて明らかにマシンのポテンシャルは劣っていたのだった。最終戦のオーストラリアGPでは、後方23位からスタートし1周目にスピンし最下位まで落ちたものの、序盤から次々順位を上げレース終盤には3位を走行するリカルド・パトレーゼのウィリアムズ・ルノーを追い回しすのだった。結局パトレーゼを抜くまでには至らなかったが、ファステストラップ(レース中の最速周回記録)を記録し、自己最高位タイの4位に入賞した。後に「雨のナカジマ」と呼ばれるようになる。
1990年 前年のシーズン中より、アロウズやティレル、オニクスなど複数の中堅チームと移籍交渉を行うが、最終的にはティレルに移籍することになる。チームメイトはジャン・アレジ。非力なフォード(コスワースDFR)エンジンを使用するが為、前年同様、苦戦を強いられることが予想されたものの、開幕戦のアメリカGPで6位入賞を果たす他、日本GPでの6位入賞を含む3回の入賞をするなど、まずまずの成績を残すのであった。
1991年 昨年に続きティレルでの参戦となった。チームメイトはステファノ・モデナ。当時は高い戦闘力と前年マクラーレンにダブル・タイトルをもたらしたホンダV10エンジンを搭載することが決まっていたため、前年以上の好成績を収めることが期待されていたがフォードV8エンジンに比べ重く大きいエンジンを積むことによりマシンバランスが悪化、入賞は開幕戦のアメリカGPの5位のみという結果に終わった。また、中嶋本人は体力と視力の衰えに相当悩んでおり第9戦のドイツGPで、このシーズンを最後に引退することを発表。当時空前のF1ブームに沸く日本のファンに衝撃を与えた。最後の鈴鹿で念願の表彰台が期待されたものの、ステアリングのトラブルにより車が曲がらず、クラッシュしてリタイアという結果に終わる。また引退レースとなった最終戦のオーストラリアGPは、4位入賞・ファステストラップを記録した2年前と同じ雨のアデレードとなり期待を持たせたが、レース序盤にリアをスライドさせてマシンをコンクリートウォールにヒットさせてしまったため26台中最初にリタイヤを喫し、F1レーサーとしてのキャリアを終えたのだった。
中嶋悟の長男である中島一貴は、かつて父がホンダF1エンジンのテストドライバーを務めた際に縁があったウイリアムズに2007年から所属し、同年最終戦からF1に参戦している事は有名な話である。



【模型写真記事】



特にカーモデルの場合、作り込んだエンジン等がボディに隠れてしまう事は当たり前で、わざとボディを被せず隣に置き、そのメカニズムを観賞出来るディスプレイ方法をボクは取っていた。しかし時代の流れとともに模型メーカーはより精密なメカニカルな模型を生みだし、その意図を組みクリアボディによるメカニカル鑑賞の楽しみ方をカーモデラー達に与えてくれたのだった。
もしこの1/8FERRARI643もそう言ったクリアボディが付属していたら、このキットはもっともっと楽しいものになったに違いない。





RAIN RACEに最も強かった男「雨のナカジマ」、中嶋悟。_d0357074_00465928.jpg


by nightrotroom2017 | 2009-10-11 23:39 | FARRARI643